吉田城に続き、掘り下げようと思う城、(三河)伊奈城
Wikipediaだと城の解説なのか本多氏の解説なのかがわからない解説が付いてる
前「
伊奈城の縄張り考える」で縄張り考えたし、もう少し掘り下げよう。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』関連で
愛知県の観光PRで豊川市内で紹介されている場所
長谷寺、
大聖寺、
西明寺、
松永寺、
鳥居強右衛門勝商顕彰碑
岩略寺城跡 (地域の歴史を学ぶ(岩略寺城))
岩略寺城跡は東西三河の境目に位置し、戦略上重要な山城であった。永禄4年(1561年)に松平元康(後の家康)が長沢の城を落とすと、深溝の松平伊忠を城番に命じて松平氏の東三河侵攻の拠点とした。堀・土塁・井戸などの遺構が良好に残り、天正期の初め頃(1570年代)の姿をとどめている。
伊奈城趾公園花ヶ池 (
伊奈城趾公園・花ヶ池公園)
伊奈城主本多正忠は、享禄2年(1529年)に吉田城を攻めた松平清康(家康の祖父)に味方して先陣を切った。そして田原城攻めへ向かう途中、清康を伊奈城へ迎え、お酒を振舞った。その際、正忠は城内の池からとった水葵の葉に肴を盛って差し出した。
これは、忠誠心を示す中国の古典に倣ったものである。清康はこの心づくしに大変喜び、本多家の立葵紋を望み求め、正忠は承諾したという。この水葵をとった城内の池がこの花ヶ池と伝えられる。
城は2つ紹介されてて、伊奈城は戦の舞台じゃないけど吉田城と関連と縁があると思った。
1.紹介文の通り徳川家「三つ葉葵」発祥の地(吉田城攻めにまつわる話)
2.江戸時代の膳所藩主本多家の本多氏中興の祖と仰がれる本多忠俊・忠次・康俊・俊次のうち本多忠俊・忠次・康俊は伊奈城城主だった。そのうち
本多康俊は吉田城城代の
酒井忠次の次男・松平清康の孫・徳川家康の従兄弟らしい
びわ湖大津歴史百科:
本多神社 戦国時代には伊奈城城主(伊奈郷の領主?)と吉田城城主(徳川家康の城代)は関係が深く、松平家とも関係があったことが判明(真偽は不明)
まあ、伊奈城というより「伊奈本多氏」との関係だけど外しては語れないか…