辰巳櫓は本丸の南東角に建っていた隅櫓で、測量図などを見ても辰巳櫓跡かなり大きな隅櫓が建っていそうな感じです
実際に辰巳櫓跡に立っても一見かなり広く、千貫櫓跡と同程度はありそうです
辰巳櫓跡パノラマ加工(2015年10月撮影) 辰巳櫓跡を見回すと土壁の土台(又は基壇)の跡があり、その列がかなり北寄り(本丸内側)にあります
土壁を図に書くとこんなイメージ
千貫櫓が櫓の外側に土壁があったと仮定したのとは対象的な土壁の配置
千貫櫓と同様に土壁よりも本丸側に隅櫓を建てたとなると相当狭い場所に櫓が建っていたことになります(外側の土塁平坦部の方が広いくらい)
この当たりの事は 「三河吉田城」(P65~)にも書かれていて、土壁の一部は辰巳櫓の跡に造られたとも考えられるとのこと(辰巳櫓は嘉永7年(1854)の安政大地震(安政東海地震)では倒壊したといわれています(同P97))
それをイメージにすると
土壁の外側に隅櫓が半分飛び出しているような感じ
ただ、この配置だと土塁の上面と土壁の間に平坦なスペースがかなり広くあって、TV番組でよく聞く定石とは違う気が…。勉強不足なのでこれ以上はわかりません
(参考:
城びと>理文先生のお城がっこう>城歩き編
第19回 土塁の役割を考えよう)
絵図でも土壁が同じような配置で書かれたものもあり、辰巳櫓が倒れる前から土壁はこの配置だった可能性は高そう
三州吉田城図(
とよはしアーカイブ)
画像提供:豊橋市中央図書館、一部加工
1. 不可解な土壁の配置の理由
安政の地震(嘉永7年(1854))で辰巳櫓が崩れ、幕府に再建断念の許可を得て土壁を回しただけにしたらしい。
なので、今の辰巳櫓のあった場所にも土壁跡が食い込んでいるのはそのため。