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よしだ城見聞記

愛知県豊橋市にある三河吉田城の城郭に関連する事などを聞いたり調べたりしたことの覚書  歴史・考古に関して素人

三つ葵の紋の由来のまとめ

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三つ葵の紋の由来のまとめ

三つ葵の紋の由来まとめ

2023年10月にあった「徳川家康の三河統一の舞台が、実は豊川市だったという展覧会」特別セミナー「酒井家か?本多家か?三つ葉葵はどこからきたのか」の要約。
講演でも言及されてるけど、結論は三つ葵の紋の由来については定説・正解はありません。

大雑把に4つ。(説が言及する発祥時期順)

1.親氏の養家説

元々「松平」氏はもともと「三つ葉葵」だった。

親氏の義父・在原信重は在原業平の19代の後裔、業平は賀茂神社と関係があり在原信盛・信重が京都から松平郷に入ったころから家紋としていた。

※個人的に確認できてないが、講演での話によると松平郷館では家紋に付いての言及があるよう。
参考:松平観光協会からのお知らせ:松平郷館 、松平氏発祥の地松平郷 松平氏について
馬印 

2.創作説

巴紋をアレンジして「三つ葉葵」にした。
「徳川世記」(編纂時期見つからず)
松平親氏が賀茂郡に来て後に加茂朝臣と称するようになり、家紋の巴紋の「勾玉」を「葵」に書き直し旗幕に付けたと伝わる
国会図書館デジタルアーカイブ https://dl.ndl.go.jp/pid/3450644/1/358



3.酒井家説

松平信光から「三つ葉葵」を使うように言われ、後年に松平長親が「三つ葉葵」を欲しいと言い代わりに片喰(かたばみ)紋をもらった。
柳営続秘鑑」(1743)
 以下内容(wikipedhia 三つ葉葵
文明7年7月の安祥合戦のさいに、酒井長衛門尉氏忠が丸盆の上に葵の葉を3つ敷きその上に熨斗、栗、昆布を盛って3代松平信光に献上したことにより合戦にて勝利をおさめたことから、酒井家の紋とするように下賜されたが、のちの5代松平長親の時に松平家の家紋として定めたため、酒井家には図案が似た酢漿草紋が下賜されたとある。『酒井家世紀』には、三つ葉葵を召し上げた代わりに、三つ葉葵の図案に似せた酢漿草紋を与えたとある。
「徳川幕府家譜」でも同様の記載あり

4.本多家説

松平清康が本多正忠家の「立葵」をもらいうけた。(後に「三つ葉葵」に変化した)
藩翰譜」(1702)
以下内容
享禄2年(1529)松平清康は吉田城を攻めた。当時の伊奈城主の本多正忠は清康軍に参加し、先陣をきって東門を破り、城を攻め落とした。ついで清康は軍を田原城に向わせたが、城主の戸田氏が降服したので、正忠は直ちに清康を招き伊奈城に凱旋し、祝宴を開いた。この祝宴に、正忠は城下の花が池にあった水葵の葉を敷いて酒肴を出したところ、清康は大そう喜び、『立葵は正忠の家の紋なり、此度の戦に、正忠最初に御方に参て、勝軍しつ、吉例也、賜らんと仰ありて、これよりご家紋となされたり。』
岡崎随念寺の肖像画に立葵が書かれているものが伝わっている。
国会図書館デジタルアーカイブ https://dl.ndl.go.jp/pid/780520/1/75
・肩の紋が立葵
随念寺蔵・松平清康肖像。岡崎市指定文化財
随念寺蔵・松平清康肖像
japaaan 天下人・家康も恐れをなした!?妖刀「村正」と徳川家にまつわる因縁とは より

上の4説以外にも説や他の疑問点もあった

説が言及する人を系図に書いてみた
(系図は正しくないと思う)
松平酒井伊奈本多系図  

(徳川・酒井・伊奈本多ともに戦国時代の家系図はあてにならないけど参考程度)
 見ると、酒井・本多は家は別だけど、血筋でいえば康俊以降は酒井にまとまり辿れば松平親氏にたどり着く。この2家に別の説があるのが面白い。
 酒井・本多説とも時代は別だけど「戦勝の宴で葉を敷き食べ物を出したこと」は共通しているので、下敷きになった話がある気がする。(またはどちらかの実話)
 巴紋をアレンジするのは流れ的にありそうだけど特定難しそう

花ヶ池について市では『「葵の紋」発祥ゆかりの地』と称していて、「三つ葉葵発祥」ではいのはこれら諸説の事もあってと推測
※個人の感想・意見です。事実と異なる場合もあります。
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