三河吉田城の広さ(序)の続き
三河吉田城の広さ(面積)が正しいのかの検証
吉田城址に訪れて最初に見るであろう解説ではどうなっているか。
1.吉田城の解説(本丸裏門土橋・金柑丸付近に設置してある)では、①「東は現在の飽海町から旭町、南は曲尺手町から呉服町、西は関屋町に達するおよそ840,000平方メートルにも及ぼ広大なものだった。」(2020年8月確認)
2.鉄櫓(資料館)内の展示にある解説では②「東は現在の飽海町から旭町、南は曲尺手町から呉服町、西は関屋町に達し、東西約1400m、南北約600m、城郭規模は内部で84haに及ぶ広大なものでした。」とある。(2020年8月確認) (84ha(ヘクタール)=84万平方メートル)
この説明、当初は「今よりは広かったんだ…」と思うだけの文章だけど、よく考えると違和感を持った。
自分にも出来そうな掛け算、1400×600=840000m2(14×6=84ha)と単純な掛け算の積になってる?
吉田城の総構えは正方形というより台形に近いから、東西南北の距離を掛けて(乗じて)も正しい面積は出てこないけど…、間違ってないか?
Webの地図で距離測ると、下の図の赤い線が城域の形で、その距離は説明文の通りだったけど、その面積は紫色の長方形。ちょっと盛りすぎじゃないの…
三州吉田城図(一部加工加筆)
とよはしアーカイブより
次に、素性のはっきりしている書籍(豊橋市教育委員会・文化財センター等)を調べた。
3.(愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第26集)
吉田城遺跡(愛知県埋蔵文化財センター 1992)P4では、③「酒井忠次の後吉田城の城主となったのは秀吉の家臣、池田照政であった。彼は幕藩期を通じても吉田藩最高の15万石の領地を支配した。それに併せて城域の拡大も酒井時代以上の規模で行われた。その結果家臣の屋敷割り等による増加が、南北600m、東西1400m、面積84万平方メートルにおよぶ近世城郭としての吉田城を出現させるのである。」とある。
4.(愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第59集)
吉田城遺跡II(愛知県埋蔵文化財センター 1995)P4では、④「池田照政は、牧野氏以来の3万石にも満たぬ小大名としての縄張りであったこの城に、新城を築く意気をもって城地の拡張と城下町の整備を計画した。その城域は、東は現在の飽海町から旭町、南は曲尺手町から呉服町、西は問屋町に達する約74万4千㎡(22万5千坪余)に及ぶ広大なものであった。」とある
5.(豊橋市埋蔵文化財調査報告書第153集)吉田城址XVI(2020.3)P4では⑤「近世吉田城は東西1400m、南北700mにも及ぶ東海道きっての大規模な城郭となった」と載っている
6.
三河吉田城(
戎光祥出版 2018.8.10) P4 ⑥「総堀に囲まれた城の規模は、東西約1400m、南北約700mに及び、東海道沿いの近世城郭のなかでは岡崎城に次ぐ規模をもつ。」
③は現地の説明と同じく84万平方メートル、その後の④は74.4平方メートルとこれだけは小さく、それ以外はは面積を特定していない。なぜだろう。
その他
7.2020年7月~に豊橋市美術博物館で開催されていた「
吉田城と三河吉田藩」の展示にも「84万平方メートル」という解説があった。(2020年9月9日確認)
8.2021年3月に豊橋市美術博物館で公開されていた「
吉田城の復元鳥瞰図」の解説では⑧「城郭の総面積はおよそ837,000平方メートル(253,000坪以上)にも及ぶ巨大な城でした。」と書いてあった。(2021年3月20日確認)
上の2つは84平方メートル(⑧は若干小さいけど)と埋蔵文化財センター調査報告書の初期の記述③と同じ
以上、面積の記述されたものは大方84万平方メートル。ただ④吉田城遺跡2(1995)だけは小さく74.4万平方メートルと約10万平方メートルも小さくなっている。四半世紀前の書籍なので除外しても良いのだけど…。
※個人の意見・感想です。
関連記事
三河吉田城の広さ(序)
三河吉田城の広さ(その1:面積84万㎡が正しいか?)三河吉田城の広さ(その2:面積を(地図上で)測ってみる)三河吉田城の広さ(その3:「○○城より広い」は正しい?)
三河吉田城の広さ(まとめ)
三河吉田城の広さ(番外編:昔の資料)
三河吉田城の広さ(補足)