愛知県豊橋市にある三河吉田城の城郭に関連する事などを聞いたり調べたりしたことの覚書 歴史・考古に関して素人
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本多定忠が伊奈城を築いてからは守護神として崇め、それ以後本多氏歴代の崇敬が深まったと伝えられています。豊川市観光協会 若宮八幡社
社前にある太いイヌマキ2株は、第3代伊奈城主本多泰次が社殿再建の際に植えたとの言い伝えがあるので、樹齢500年以上と推定されています。
昔、前芝村(現豊橋市)に東漸寺という真言宗の寺があったが、廃寺となり延命地蔵尊を祀る小堂だけになった。ところが、津波によりこの地蔵尊が、伊奈の地に流れ着いたので、村人はこれを崇めて祀っていた。豊川市:東漸寺
この地蔵尊を本尊として、明応元年(1492)第三代伊奈城主本多正時(泰次)が堂宇を建て、知多郡緒川(おがわ)の乾坤院(けんこんいん)の亨隠慶泉禅師(こういんけいせんぜんじ)を開山とし、萬年山東漸寺と名付け、本多家先祖累代の菩提寺とした。
花ヶ池と葵の紋現地解説碑より
享禄2年(1529年)松平清康(徳川家康の祖父)は吉田城(豊橋市)を攻めた。伊奈城主の本多正忠は、清康軍に参加し吉田條を攻略した。ついで田原城へ向かわせたが、城主の戸田氏が降伏したので、直ちに伊奈城に凱旋し祝宴を開いた。この時の様子が、「藩翰譜」(新井白石編)に次のように記されている。
『家に伝ふる所は、此時御肴をすすむとて、池なる水葵の葉に盛りて参らせしに、二郎三郎殿御覧ありて立葵は正忠の家紋なり、此度の戦に、正忠最初御方に参りて、勝軍しつ、吉例也、賜らんと仰ありて、これより御家紋となされたり。されば岡崎随念寺に自ら写し玉ひし御画像に、立葵の紋をゑがかれしが、今にありと申せなり。』
この時から本多家の「立葵の紋」が、松平家の家紋になり、その後、家康の代に「三つ葉葵の紋」となったと伝えられている。