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よしだ城見聞記

愛知県豊橋市にある三河吉田城の城郭に関連する事などを聞いたり調べたりしたことの覚書  歴史・考古に関して素人

伊奈城(三河国):花ヶ池公園

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伊奈城(三河国):花ヶ池公園

豊川市にある伊奈城(三河国)の関連遺構
花が池公園(豊川市伊奈町丸ノ内)

↓自作公園マップ

「葵の紋」発祥にまつわる池
花ヶ池と葵の紋
 享禄2年(1529年)松平清康(徳川家康の祖父)は吉田城(豊橋市)を攻めた。伊奈城主の本多正忠は、清康軍に参加し吉田條を攻略した。ついで田原城へ向かわせたが、城主の戸田氏が降伏したので、直ちに伊奈城に凱旋し祝宴を開いた。この時の様子が、「藩翰譜」(新井白石編)に次のように記されている。
『家に伝ふる所は、此時御肴をすすむとて、池なる水葵の葉に盛りて参らせしに、二郎三郎殿御覧ありて立葵は正忠の家紋なり、此度の戦に、正忠最初御方に参りて、勝軍しつ、吉例也、賜らんと仰ありて、これより御家紋となされたり。されば岡崎随念寺に自ら写し玉ひし御画像に、立葵の紋をゑがかれしが、今にありと申せなり。』
この時から本多家の「立葵の紋」が、松平家の家紋になり、その後、家康の代に「三つ葉葵の紋」となったと伝えられている。
現地解説碑より
 注記:二郎三郎=松平清康
 


かつては江川(旧豊川の河口で現在の豊川放水路河口付近)に通じ湧き水豊かな池で往昔の城主の産湯を汲んだとも伝わる。

「花ヶ池」石碑は、文化10年(1813)膳所藩藩儒黒田忠明が建てたもの。 

大正のころ
伊奈城趾公園解説花ヶ池写真大正時代
現地説明板より

豊川市観光協会 花ヶ池公園
豊川市 花ヶ池公園

近年の花ヶ池 「花ヶ池」石碑は明治期より石碑の存在は知られていたものの、戦中の耕地整理・弾丸列車計画の土地買収(接収)荒廃により昭和20年代のころは石碑の所在が分からず。新幹線工事前に地元住人による予定地清掃により発見され消失を逃れたと聞く。(新幹線の盛り土部が池の部分のみ狭くなっていることとを含め、話の真偽のわかる史料が見つからず)

1948年の航空写真だと、花ヶ池が弾丸列車買収地にほぼ入ってるのが分かる。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
1948/01/19 USAR864-2(加筆)

実際は買収地に食い込む形で池はかろうじて残っている。
1983年

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
1983/10/25 CCB834C10-5(加筆)


水葵

「藩翰譜」(新井白石編)の逸話にある「水葵」を「ミズアオイ」と説明しているサイトがある。フタバアオイにも形の似た葉で目に止まったから家紋の話題になった、との見解からと思う。
ミズアオイ
重井薬用植物園

膳所藩藩儒黒田善(黒田忠明の子)は(「徳川氏三葉葵」天保8年(1837))において中国の故事「春秋左氏伝」に準え、「水葵※」でもてなした正忠の忠誠心に感激し家紋の話題になったとの解釈をしている。
※「水葵」は中国読みで「スイキ」で荇菜(アサザ)・蘋蘩(うき草・しろよもぎ)を指す。
(「三州伊奈本多家関係資料」、豊川市「伊奈城趾公園・花ヶ池公園」参照)
アサザ
アサザ
それらの解説は公園にはないけれど、公園内の水草には「アサザ」があるらしい(自分の目には葉だけ見るとスイレンのようなものにしか映らないけど)
東三河をあるこう 花ヶ池のアサザ

逸話に出てくる葉が何であったかはわからないけれど、中国の故事に準えた解釈は信じたくなる。

(所謂「三つ葉葵」の由来については諸説あり、その一つが「藩翰譜」(1702)に書かれた伊奈本多氏説。真偽のほどは現在は分からず)
参考:国立公文書館 藩翰譜
※個人の感想・意見です。事実と異なる場合もあります。
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