吉田城(当初は今橋城)が築かれた戦国時代、城の争奪戦が激しかったということが、今一つピンとこなかったけど、当時の城の分布地図をつくったら少し理解ができた
戦国時代の東三河の城(修正版)
地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)に加筆
この図だと、豊川とその冠水域があり、豊川右岸には「牧野氏」、豊川左岸には「戸田氏」を両者がにらみ合っている状況
(※この冠水域は鎧堤(よろいづつみ)(又は霞堤)があった明治時代のものなので、戦国時代はこれと同じとは限らない)
堤防など無い時代、大雨だと氾濫する時も多かったと思うので冠水域が防御線になっていたと推測
この防衛線を超えて左岸に城を構えるのは両者にとってインパクトがあったと想像
それに加え、豊川沿いでありながら冠水域にない豊川左岸の港(現在の関屋町・湊町・船町あたり)は、豊川上流からの舟運と伊勢への航路の両方の港であったのはうなずける
また、永享4年(1832)には吉田城が築かれたあたりに橋が架かり街道となっていたらしい(故に今橋と呼ばれていた?)
(「とよはしの歴史」 豊橋市 H8.3.31 P84,153 )
江戸時代は宿場町・湊町として栄えていた.当時でも商売が盛んだっただろう場所.きっと狙われやすかったよな…
気になるのは、今橋城となる前に城が築かれた場所に屋敷を構えていたとされる武士 渡辺平内次(※) 当時の実力者には抗えなかったとはいえ、地の利から相当の力はあっただろうと想像するけどどうだったのだろう.
(※名について「とよはしの歴史」(豊橋市 H8.3.31)では「渡辺平内次」、それより発行が新しい「三河吉田城」(岩原剛 2018.8.10 )では「渡部平内次」 調べ尽くしてはいないけどここでは通史として前者を採用)
個人の意見・感想です
地図作成にあたって参考にしたもの
「とよはしの歴史」豊橋市 H8.3.31
「戦国時代の東三河の城」図(P72)
「明治中頃の豊川流域の鎧堤」図(P95)
「豊川・柳生川河口の新田開発」図(P131)
上の3つの情報を、現在の地形が解る地図、地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)の「色別標高図」に書き加えた