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よしだ城見聞記

愛知県豊橋市にある三河吉田城の城郭に関連する事などを聞いたり調べたりしたことの覚書  歴史・考古に関して素人

三河吉田城の柳生門は長篠城の大手門を移したもの!?

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三河吉田城の柳生門は長篠城の大手門を移したもの!?

東惣門跡のある国道1号線東八町交差点付近は今では車道と路面電車が並走する通り
吉田城城下町_柳生門
江戸時代は、東海道と八町小路をつなぐ入り組んだ道で、東惣門-新町口-柳生門と3つの門があった
三州吉田城図_東惣門
柳生門は城内武家屋敷を貫く八丁小路(八町小路)から新町に抜ける門
柳生門の遺構は大正期までは残されていたようだけど、後に、この柳生門がどうなったのかは追跡が出来なかった
(豊橋一覧(大正2年)に記載があったことは確認)

豊橋市旧市部全略図_下モ町
豊橋市旧市部全略図A-3(S8(1933)発行)より
(豊橋市図書館/とよはしアーカイブ)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/2320105100/2320105100200070/mp000040


柳生門の姿は写真には残されてないようだけど、幕末の藩士池田家に残された資料の中に柳生門を書いた図が有り
柳生門図
「吉田藩士の地図コレクション」(豊橋市美術博物館H26.2) P10
(一部加工)

大手門と同じく二重の櫓門(楼門)であったもの柱は4本のようなので幅が狭かったと思われる
後述のように、柳生門は長篠城(天正4年(1576)廃城)の大手門(追手門)を移したものと謂われていたが、長篠城の大手門(追手門)が櫓門であったかどうかはわからない



現存しない遺構を取り上げるのは、この門には謂れがあったから

柳生門(夜牛門・矢牛門)は池田輝政城改築に際して長篠城の大手門を移したと云われている
①「八丁小路矢牛門、遷長篠之追手門建干此」
三州吉田記
三州吉田記 天保14[1843] P53(豊橋市図書館/とよはしアーカイブ)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/2320105100/2320105100200010/mp000120
東参河資料叢書
東参河資料叢書. 第1編P49(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177908
豊橋市史第2巻(S50.11) P213

②「秋葉神社の東に堀を隔てて此門あり、門扉並に楹柱に刀痕を付する多し 此の門は長篠城の追手門を遷すと伝う」
豊橋市一覧
 豊橋一覧(大正2年(1913)).P20(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947969

池田期(1590-1600)には長篠も領地だったと思うので移築(材を再利用?)されていたとも考えられる。残っていたと書かれている刀痕は、長篠の闘いの当時のものなのかどうかはわからない。現存しないため、今確かめる術はなし。残念…
②では廃城後も柳生門が八幡社に残されていたことを伺わせるもの。昭和13年の地図では八幡社が記載されていないので、移転とともに移されたか、そのまま撤去されたか?
豊橋市街図(S13)
豊橋市街図 [昭和13年](豊橋市図書館/とよはしアーカイブ)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2320105100/2320105100200030/A292-443/



柳生門・新町口・東惣門の配置について
③吉田城の西にあった西惣門付近がシンプルな構造に対して、東惣門付近が入り組んでいるのは、池田輝政時代、徳川家康への対策として東側を厳重な備えとしたといわれている
「吉田城いまむかし」(豊橋市教育委員会 H6.8) P92

④池田期以降、柳生門が東南の門であったものが、新町の設置された天保元年(1644)ごろ(水野忠善期)新町口が設けられたものの廃止されること無く明治を迎えたようである
豊橋市史第2巻(S50.11) P213

この2つ、時系列で考えると
1池田期、東側を厳重にしたいと考え整備
2水野期、新町整備に伴い今知られている形に整備
池田期の縄張りが不明だけど、それまで3万石~4.5万石に石高が増えた水野期(新町整備)・小笠原期(灌漑のため総堀に水を流入)あたりに改修されて知られている配置になったのではないか

※個人の意見・感想です。また、引用の書籍は書籍発行当時の内容なので現在の見識と異なることがあります。
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