最近大河ドラマの事あってか、安城市歴史博物館「
安城譜代2 三河本多一族」や豊川市桜ヶ丘ミュージアム「
徳川家康の三河統一の舞台が、実は豊川市だったという展覧会」などこのあたりの事掘り下げられてる。
豊川市にある城址だけど、戦の中心になったこともなく、水田のなかにポツンとあって石垣はおろか天守なども無い
伊奈城。
wikipediaの説明でも伊奈城の説明より本多氏のエピソードが綴られてて、城の説明はほぼ無いのが残念(修正した2024.5.3)
だいぶ前に城の全体像を考えた落書きあったの思い出した。
城の縄張りはこんな感じ(
東漸寺に残された絵図が元になってる)
でも、スケールが分からないから、明治・昭和の地図・地籍図参考に明治期の城址と周囲の川(水路)を現在の地図に重ねる
明治ごろは想像以上に川(水路)に囲まれた城だったよう。
ただし、戦国時代に川(水路)があったかどうかは不明。おそらく江戸時代の灌漑のため整備された川(水路)だと思う。
現在の佐奈川は近年整備されたものでそれ以前は柳堤より下流は「奈切」とよばれた多数の小川(水路?)だったと聞く
佐奈川の河口も現在の場所ではなくて梅藪元屋敷(現
西浜町)から南へ蛇行し前芝の方に流れてたらしい(天文9年8月の豪雨で氾濫した記録あり)
伊奈城廃城後も元城主(
伊奈本多氏)が譜代大名だったから土塁が明治期まで残ってたと思ってる。
地籍図(昭和11年前後)にも本丸の形がわかるくらい残ってた。でも、本丸以外はさっぱりわからず。
時計回りに25度ほど回転させると、馬出の位置が絵図と一致する
土地条件図と合わせると、なんとなく伊奈城址と屋敷の位置がなんとなく絵図と一致しそう
城址は
後背湿地(緑青メッシュ)にあって自然の堀となっていたよう。
北・東には
氾濫平野(薄緑メッシュ)、南東・北東は
河岸段丘(オレンジメッシュ)があって、こちらに屋敷があって生活はこちらではなかったか?
特に南は前芝・梅藪方面から海運の管理などするには都合が良さそう
本多氏の菩提寺だった
東漸寺や
若宮八幡は少し離れているけど、川の氾濫などあっても避難できる場所でもあるし経済面で考えれば合理的な地域とも考えられる。
など、想像膨らむ