着到櫓跡の標柱の建つ築山(土塁)、初めて見た時は周囲に新しい石積みがあったりしたので、雰囲気出すためにわざわざ築山を作ったのだろうと思ってた
(吉田城址の土塁はここ以外は連続で残っていて、偶然残ったとは考えにくい)
でも、もしかしたら土塁は江戸時代のものの一部であったのかもしれないと今は思っている
以下、2つの理由から
(個人の意見・感想です)
昭和29年(1954)に開催された豊橋産業文化大博覧会の会場MAPには着到櫓の場所に土塁が記載されている
(豊橋産業文化大博覧会誌 S31.3.31 P147)
大正期の軍隊敷地の配置図にも土塁が記載されている
(豊橋の戦争遺跡パンフレット P3より)
豊橋市美術博物館>
郷土の戦争遺跡・資料 吉田城内史跡の絵葉書に土塁の写ったものに「評定櫓跡」とあり(樹木など現状との比較ができないので同一場所ではない可能性もある)
(「絵葉書のなかの豊橋」 P119)
※紹介した大正時代とされる配置図・絵葉書には「着到櫓」ではなく「評定櫓」として記載されている
単純な間違いか、なにか思惑があってなのかは不明
(本来の評定櫓が建っていた場所は大正時代にはすでに建物が建てられていたので、堀も土塁も破却されていたよう)
「着到櫓」に注目した考え方があり、東海道を結ぶ線と大手門と本宮山を結ぶ線の交差する場所が評定櫓の位置で、池田輝政が意図した配置ではないかという(書籍発行当時の説)
(「吉田城址1」1994.3 P59 , 「吉田城いまむかし」H6.8 P90)
google
着到櫓があるこの場所は古くから着目されていて意図的に残されたのかもしれない…
個人の意見・感想です