豊川の水位との事考える過程で標高図を見ていた。
改めてみると、平城の三河吉田城、本丸から三の丸あたりが高く、大手門三の丸までの道筋も高くなってる。
東側総構えが二重になっているのはその東が高いから視覚的効果とか西側との地形的リスクのバランスを考えての事か?
ふと、その地図に向山大池からの水路(一部外堀)のルートを書いてみた。
思った以上に起伏の少ないルートを通ってることが分かった。
向山大池を作り(1654)吉田城総堀(外堀)に水を流入させたのは小笠原氏治世の時代(1645-1697)
城下町整備のため向山大池から水を引いたと思ってたけど、吉田城周辺の標高図を見ていると地形的に考えても合理的理由があったと解った。最短ルートで前田町あたりを通そうとすると、標高が低くなり水路整備が大変そう。
吉田方方面の灌漑のためであってもこのルートが合理的。ならば、外堀も利用すれば1km以上工事簡略化できるし…。
地理院地図を一部加工
※個人の感想・意見です
とよはしの歴史:
小笠原四代
豊橋百科事典:
向山大池