吉田城の広さのこと、もやもやとしてたので、改めてウィキペディア見ていた
よく見ると「立地、構造」のところにも、「名古屋城よりも広い」と書いてある。
wikipedia:
吉田城 (三河国)2022年2月20日閲覧
この記事は、2013年6月20日 (木)に更新された記事で、それ以前には書かれていなかった。
wikipedia:
「吉田城 (三河国)」の版間の差分2013年6月20日 2013年は城の事に興味持つ前なので、この時期にこの分だけ足した経緯は予想付かない。その以前に発刊された書籍にもそんな記述がありそうなものがあるのか?(編集した人はこの記事以外投稿していない)
ただ、
三河吉田城の広さ(序)の件もあるので、何らかの根拠はあるのだろう。
個人的には、広さ競争の文は無い方が良いのだが…
もう一つ気になるのが、「遺構」の鉄櫓下の石垣の件
2005年の修復の際に池田輝政時代の石垣であることが判明 とあるが、書籍では見た事無い。もともと、石・積み方から他よりも古い形式から池田期のものとの通説はあったものの、それを確定する何が見つかったのだろうか?
(「三州吉田城の石垣と刻印」S47.6.15 P52)
このときの修復は石垣の修復だったらしく、担当業者の論文もネット上にある。
Bing「櫓直下の石垣補修について」