思いつきで、吉田城の遺構に関してのこと調べてて、新たな知見を発見
魚津社寺工務店:
静岡県湖西市 本興寺(法華宗陣門流)中門修理工事記事見てたら、「解体修理中の中門の部材から、宝永4年(1707)と宝永5年(1708)の墨書が発見され…」と書いてあった。
JINさんの陽蜂農遠日記:
湖西市・本興寺(ほんこうじ)を訪ねる(その3)より
魚津社寺工務店:
静岡県湖西市 本興寺(法華宗陣門流)中門修理工事より
「貞享3年(1686)十七世日観の代の建立…」とあるけど、今回の発見で少し時代が下る可能性があるのかも(宝永4年(1707)の出来事が書いてあるらしい。
地震で倒れて直したときに書いたという事も考えられそう…
以下、勘違い
ネットで調べると、本興寺の「惣門」は吉田城から移築したとあったからてっきり今回の「中門」と同じものと勘違いした。
豊橋百科事典:
本興寺「中門」だから「惣門」とは違うのだろうと思うけど
わいど208:
本興寺惣門と吉田城
魚津社寺工務店:
静岡県湖西市 本興寺(法華宗陣門流)中門修理工事より
よく見ると、背景の木の数が違うか?
JINさんの陽蜂農遠日記:
湖西市・本興寺(ほんこうじ)を訪ねる(その1) (2) より
JINさんの陽蜂農遠日記 の記事を読み進めていったら、惣門もあった。
解説板には「三河国吉田城の城門であったものを、延宝二年(一六七四)十六世日穏の代に
吉田城より移築したもの」とかいてあるらしい。
こちらにはどこかに史実があるのかも…
まことしやかに言われてる奥書院
解説板には吉田城の事は書いていない。
湖西市: 本興寺
こちらにも書いてあることが奥書院=吉田城からの移築説の代表
ただし、この情報は既に古くなっているかも
いづれにしても、一度は自分で確かめないと…
※個人の感想・意見です