吉田城址の千貫櫓発掘に関する記事が先週末に掲載されていた
東愛知新聞「
吉田城千貫櫓は全国的にも珍しい特殊構造」2020/3/14/閲覧
新聞記事だから詳細はまでは解説されていませんが、黄金の類は見つからなかったよう
以下、個人の意見・感想です
内容を読むと、池田期の瓦が見つかったことと、基壇の上に櫓が建っていたことを伺わせる物が見つかったということ
記事の内容からではどんな「基壇」だったかどうか私には判断できないけど、現在の寺社建物でよく見られるような1段嵩上げしたようなものかな
現在見るような江戸時代の城であれば、石垣そのものが「基壇」なので、実用性の面では石垣の上に更に基壇が有ることは考えにくい
そのうちに具体的なもの発表されると思うけど、「基壇」があると聞いて以前見た説とつながった
今回発掘の千貫櫓台
千貫櫓台の石垣、一風変わってる(2018年撮影)
今の鉄櫓がそうであるように、石垣目いっぱに建てるのが多い
発掘写真で「基壇」として撮影されているのは、櫓台よりかなり内側なので、下の絵図と似てる(※3も参照)
(南多門にある解説板 絵図「吉田城本丸二之丸略絵図」より)
なぜそんな配置になったかの仮説
1:池田輝政(1590-1600)の時代、土塁上に基礎を固めるために基壇を設け、櫓を建てた
2:松平忠利(1612-1632)の時代(※1)に本丸を飾るために石垣1を作った。このときは土塁上面までの石垣で土壁を石垣上に作った(※3)
3:地震で壊れた(※2)あと、石垣2を作った。このときに基壇上まで埋めて櫓を再建した(江戸時代の瓦も埋まっていたとのことなので))
こんな筋書きだろうか。以前読んだ本で説が書いてあった気がするけど忘れてしまった。
石垣部分の筋書きは幾つか疑問点があってこれが正解だとは思わないけど、始まりが石垣上ではなく土塁上に「基壇」を作ったほうが自然だと思う
※1:石垣の石に名古屋城と同じ刻印が残されていることなどから。「
とよはしの歴史」P94・「
三河吉田城」P54より。前回の発掘調査説明会(2019年)では「千貫櫓は3代ある」と言っていたので、このときに建て替えていた可能性あり)
※2:宝永地震(1707)の地震で千貫櫓・多門櫓倒壊。石垣も崩れていた。後の安政東海地震(1854)では無事だったとされる 「
三河吉田城」P55,97
※3:絵図「三州吉田城図」では、石垣が上部のみあり土壁も石垣縁に建っている。この絵図では本丸御殿が描かれているので宝永地震より前の姿を書いていると推定
画像提供:豊橋市中央図書館
とよはしアーカイブ の画像を加工
発掘前から石垣の上の盛土(通常なら石垣上部を平らにするための切石が並ぶ場所)が かなり厚く平瓦を積んだ状態が見えていた
(2018年撮影)
城郭壊した瓦礫がそのまま残ったのだろうと勝手に思っていたけど、ちょっと違うかも…と思い始めた
(軍駐留時の地図・写真等では施設が作られた形跡がないため)