本興寺(湖西市)の「門」のあれこれの続き、本興寺の山門(惣門)のこと
「湖西市指定文化財 本興寺惣門保存修理報告」(湖西市 平成6年3月)を読んで、情報の整理ができた。
要約
明治以降
寺伝では「本興寺惣門及び奥書院 元禄11年(1698)当時の吉田城城主久世重之が寄進した」といわれていた。(豊橋市図書館の所蔵品展で見た明治期に書かれた「本興寺山門」の図面にもそんなような事が書いてあった気がする)
平成6年
惣門保存修理の際に見つかった墨書銘などから奥書院・惣門は延宝2年(1674)であることが判明。
推論
1.信仰の厚かった久世氏当時老中久世広之が、配下の寺社奉行小笠原長矩の居城吉田城大手門の建て替えを聞き、旧大手門と屋敷1棟を譲ってもらい寺に移築した。(P2)
2.明治期に撮られた大手門は、延宝元年(1673)に竣工した櫓門。改築前の大手門については記録がないが、牧野古白の築城以来飽海口に置かれた大手門は池田輝政の拡張に際してここに移されている。(P38)
寺伝の原文がわからないから、なんとも言えないが寺伝は鵜呑みにできないだろう。
俗論
寺伝と史料の移転時期の違いが混乱しているよう
ウィキの
ノートでもそんなような指摘されているけど、指摘している側の情報もなんとなく眉唾(延宝2年(1674年)に藩主(城主)は久世重之(治世1697-1705)と書いてあるけど、そもそもそれが間違い。当時はそういわれていた可能性はあるが)
写真の残る大手門の姿が櫓門だから「大手門が高麗門であるはずがない」と耳にしたことがある