お断り:
吉田城の「水門」は船着き場近くにある門というのが通説です
(吉田城パンフレット「東海の名城 吉田城」より
http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=707)
人伝えなどで豊川(とよがわ)から舟が出入りしていたと聞いた事のある「水門」
「水門」という名称から、水路を遮るように設けられた門でそこを舟が出入りしていた想像できるので、「水門」のある場所からそのことをあまり疑わなかった
ただ、実際に現在の水門跡とその周囲をみると舟の出入りは難しそうと感じる
吉田城の3Dモデルを作る過程で、このモヤモヤした感じにけじめが付き、人伝えが必ずしも正解とは限らない可能性があると知った。
1.水門跡に豊川(とよがわ)から水が引きこまれていたか?
吉田城の3Dモデルを作るため、石垣の高さなど測ったときに、この水門のところも大雑把に測定
水門脇の石垣付近の地面は、豊川河畔の石にある水跡を頼りに測ると豊川水位(満潮時)から約4m、そこから石垣の上までが6.5~7m。石垣の角度が約10度
もし、豊川から舟が入れるように水を引き込んでいたと仮定すると、水面での幅が3.2m程度。干潮時(※1)にも舟が入れるようにと考えると更に3m程は深いと思うので、底部分の幅は2mくらいにはなりそう
仮に10mもの高さの埋門があったなら、豊川から見たときは本丸の多門よりも壮観だったろうと想像
水路底からだと、13m以上の武具庫跡下の石垣よりも高い石垣(石積み)で、池田期より後の時代の石垣では最高の石垣だったか?
2.資料では水を引き込んでいるのか
絵図を見ると、河畔までは道(階段)があったようにも見え、石垣も水辺からは離れているで、舟が城内まで入るようにはなっていなかったのではないかと推測
三州吉田城図
画像提供:豊橋市中央図書館、一部加工
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/2320105100 〔日本古城絵図〕 東海道之部(2). 37 三州吉田之城図
国立国会図書館デジタルコレクションより
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286302※吉田城のある付近の豊川(とよがわ)は潮の干満により水位が変わる場所(感潮区間)で、豊川上流のダム等による水位の変化はないといわれています。なので、江戸時代から川の水位については大きな変化はなかったのではないかと思われます
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