愛知県豊橋市にある三河吉田城の城郭に関連する事などを聞いたり調べたりしたことの覚書 歴史・考古に関して素人
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千貫櫓台は下が土塁で上部が石垣になっているのに対して南多門(櫓)台は堀底から石垣となってて、中世の城と近世の城の違いといわれる石垣だけに着目すると、南多門(櫓)台の石垣は本丸南側ではここだけが堀の底から積まれているので立派に見えます
(上から見た時)南多門(櫓)は千貫櫓より南側(堀側)にせり出しているので、(堀の改修なしに)土塁では作れず石垣にしたと思いつきます
土塁中心の中世の城郭から近世の城郭への改修の過程で、土塁では強度不足になる個所のみ石垣としたために、そういう造りになったか?(ただし南多聞付近だけ見た場合)
今年2/1のとよはしシンポジウム「池田照政と吉田城」で聞いた加藤理文氏の説がうまくあてはまる(と思っている)
加藤氏の説に私の考えを乗せると
3.虎口のため造った南多門(櫓)台の下を石垣で補強した
これは私に都合のいい解釈で、私が見ている石垣の石材や積み方はこの考えに合わない部分あり
(この部分が地震で崩れ直されている部分なので造られた当時の状態ではないと考えられますが)
素人なので真相解明はほど遠いです
(2017.8.28撮影)
この石碑は裏面の金石文によると大正8年ごろ建てられたもので、建てられた当時は旧日本軍の駐屯地でした