2022年10月29日、発掘現場説明会を聞いての感想
1.千貫櫓台の東面は現在見えている石が「根石」でその下には石はない(明治以降掘り下げられたとみられる)→根石の根入れがない(埋まってない)ので石垣上面が不安定になっていたと推定
2.東面の下段上部には多数の瓦が埋められている。中には江戸後期のもの(桟瓦)もある。→この部分の石垣崩壊・修復の記録は宝永地震(1707)はあるが、安政大地震(1854)には無いので、江戸後期の瓦がココにあるのは合致しない
また、石の中にフジツボの付いた石などもある→今までは豊川を使い山から持ってきたと思われていただ、海の石材を使ったルートも考えられる。
3.崩れる前に見えていた東面石垣の下部裏側に2段ほど石の列が存在。その石との間にも裏込め石がある(新聞報道等で「埋め殺し石垣」といわれるもの)
4.発見された矢穴付きの石が大きさなどから元の隅部石と思われる(石はほぼ方形に見える)
元々見えてた隅部石垣にも言える事ながら、隅部がしっかりした算木組となっていないのは適当な石材が無かったためか…
(おそらく、算木や鏡石として使われる大型のものは初期の段階で切り出し、一般の部分につかう石材は後になるので、名古屋城の残石を使っているとみられる吉田城の石垣の場合、算木に見合う石材は残っておらず、比較的大型の切り石を利用したと推定)
関連:
吉田城石垣 5/24 千貫櫓台石垣被害現場の観察5.隅部より西方向にある石がみられるが、千貫櫓南面上段の石垣とは同じ面を成していない(つながっているわけではなさそう)
6.千貫櫓南面二重石垣の足元は現在の土橋面より若干低い位置に根石がみられ、その下部に基礎がある(鉄櫓下と同様)また、前面の土塁は後の時代に盛られた形跡有り(赤土の部分)
二重擁壁の断面イメージ
想像だと根石(基礎)はもう少し深くなっているだろうと思ってたけど、トレンチを見ると数十センチ程度。赤土が盛土されているとしても現代の練積みと比較しても非常に浅く安定するとは思えない。
関連:
吉田城址千貫櫓台石垣の復旧・発掘調査写真(6/22)見て気づいたこと7.南面西側にある不自然なコンクリート板は軍駐留時に開けられた穴を塞ぐもの。戦後まで出入りできたよう。
石垣の要になる基礎部分に穴があると修復にも課題が残るよう
8.石垣上部に重ねられた瓦、上面を平らにするため明治以降につくられた物らしく、瓦は新しい。
9.東面北側の中段には裏込めと裏込めの間に土の層が明確にわかる。
理由はよくわからないらしい
今回、いろいろ発見があるものの、謎が深まった感じ。
個人の感想・意見です。
資料
豊橋市美術博物館:
10/29(土) 吉田城址 発掘調査現地説明会を開催しました
041029吉田城址説明会資料