伊奈城の縄張り考える
の続き
絵図とか地籍図とか形を合わせようとあれこれ考えたけど、発掘調査報告「伊奈城趾」をみていて、戦国時代末期の織豊系の城というより中世の城館(領主宅)と考えた方が良さそう。
きっかけが
豊川市 令和3年度生涯学習地域連携講座「
伊奈本田(本多)氏の足跡~戦国時代の東三河で活躍し、徳川譜代大名となった一族~」
を改めて視聴したこと。
かいつまむと、
①歴史は後世に作られた可能性が高い(正忠くらいから断片的に史料あり、それ以前は眉唾かも)
②伊奈本多氏は渥美から船で乗り込んできた野心家の可能性がある。(田原の地を所領していたことから、そこが出身か)
この2点は伊奈城の縄張りには直接関係ないものの、「海から来た」点を考えると伊奈という地に居た理由がある気がする。
とよはしアーカイブ とよはしの歴史 P69抜粋
豊川右岸には波多野氏、牧野氏等地元武将と今川氏・松平氏等の大勢力との端境。
地理的に豊川右岸の台地の縁、扇状地との境界の位置。
そのころの伊奈周辺、今のように川の治水も護岸もされていなかっただろうから、海抜2メートルくらいまでは人が住めないとして線を引くと下の感じ。
前芝梅藪は既に湊として開けていたように思うし入り込むには場所も余ってなかったか?
伊奈は
江川(今の豊川放水路あたり、当時は豊川主流)の河口近くで陸地の先端に位置している。
湊を支配できれば懐具合も良かったろう。
前芝には湊があって、伝承だと城下に船も入れたようだから、船から見ると深田の中に見える伊奈城は島のように見え目立っていたのかもしれない。(小嶋城・小嶋古城と呼ばれる理由か?)
絵図にもあるように主郭の南に「的場屋敷」や「松見隠居屋敷」があるように主郭内に居城していたわけじゃなく、織豊系の城でいう本丸のような機能と考えるには孤立し過ぎてるように思うから儀式などやる場所ではなかったか。(そんな屋敷あったかどうか不明)
「的場屋敷」や「松見隠居屋敷」も絵図だと主郭の南となり、「お松見」が「松見隠居屋敷」ともいわれてるけど、立地的に陸の端ではなくもう少し東の側と考えた方が自然ではないかと推測。
今の市場・中村地区あたりが居住地ではなかったろうか。(絵図の方位を25度傾けるとだいたい合う感じ)
どの範囲であっても、限られた範囲を所領する小武将(正式名わからんが…、江戸時代でいえば旗本の下の
御家人)クラスだったろう。
江戸時代なら『伊奈城』ではなく『伊奈
陣屋』とか『伊奈屋敷』となったか?
同じように標高の視点で周囲を見ると、佐脇城・御馬城もある。
佐脇城は今川方にその後松平方に付いて天正3年(1575)の長篠の合戦まで続く。
御馬城は文明年間(1469~1486)ころ今川氏により落城したそう。
御津町商工会
佐脇城 御馬城
立地に関係なく小武将は、誰に付くかによって存続を左右する時代ということか…
享禄ごろ 永禄元年 永禄5年両城とも遺構はあまり残っていないことを考えると、後に城主が出世したことが遺構が残る決め手になったかな…。
自分的にわかった事
①伊奈へは海路で来て湊の利権を得て成功。(可能性がある)
②伊奈に居た時は武将というより御家人クラス(所領が広くない)
③武将(大勢力)へはうまく振舞い生き残った(徳川家康に付き転封)
④添付後出世したため『伊奈城』と呼ばれ遺構等残った。
※個人の感想・意見です。事実と異なる場合もあります。